(主に『ニモ』におけるメビウスと宮崎駿の参加状況について)
《基本情報》
書名:リトル・ニモの野望
著者:大塚康生
絵:(宮崎駿や高畑勲等の絵、写真が紹介されている。
メビウス関連の画像はなし)
出版社:徳間書店
ISBN:4198618909(初刷)
初版発行年:2004年7月31日
公式解説ページ:なし(
大塚康夫の公式サイト)
1970年代後半から1980年代にかけて、
日米合作という形で制作された『ニモ』
(英題『LITTLE NEMO』)という映画がありました。
同作は宮崎駿、高畑勲、そしてメビウスをはじめ、
有名なアーティストが数多く参加した非常に豪華な企画だったのですが、
残念ながら興行的には失敗してしまいました。
しかし、日本のアニメを世界に紹介した映画として、
いまでも語り継がれる作品となっています。
◆ 『リトル・ニモの野望』概要
『ニモ』の制作に直接関わった大塚康夫が
みずから当時の制作状況をくわしくレポートしてくれているのが、
本書『リトル・ニモの野望』です。
たんにメビウスの関連書籍としてだけではなく、
日本アニメの海外進出黎明期の様子を伝えるものとして、
とても興味深い本です。
本書の概要については、
すでにくわしく紹介してくれているサイトさんが他に沢山あるので、
そちらを参照させていただくことにしましょう。
◆ 『リトル・ニモの野望』について
● アマゾン日内『リトル・ニモの野望』
● 「アニメ! アニメ!」内「書評:『リトル・ニモの野望』」
● 「本、映画、音楽」内「『リトル・ニモの野望』 大塚康生著」
◆ 映画『ニモ』について
● 「goo映画」内「ニモ」
● 「allcinema ONLINE」内「NEMO ニモ」
● 「IMDb」内「Little Nemo: Adventures in Slumberland」
◆ 大塚康生について
● ウィキペディア日内「大塚康生」
● 大塚康生公式サイト「大塚康生のWEB峠の茶屋」
◆ 原作者ウインザー・マッケイについて
● 「たけくまメモ」内「夢オチはなぜ悪いのか?(2)」
● 同サイト内「W・マッケイとアニメーションの始原(1)」
● 同サイト内「W・マッケイ(2)これが95年前のアニメだ!」
◆ 映画『ニモ』におけるメビウスと宮崎駿の参加状況
映画『ニモ』は、
メビウスと宮崎駿がはじめて一緒に仕事をした作品でもあるわけですが、
(「宮崎駿―メビウス」展をのぞけば、
二人の共作というのはこれが唯一の例なんじゃないかと思います)
『リトル・ニモの野望』によると、
どうやらメビウスと宮崎駿は実際には会ってはいないようです。
『ニモ』は非常な難産の作品で、
途中で一旦企画が頓挫し、
スタッフが大幅に入れ替えられているのですが、
なんと、
宮崎駿は入れ替え前のメンバー、
メビウスは入れ替え後のメンバー、
ということで、
同じ作品の制作に参加しながら、実質上は一緒に仕事をしていない、
という何とももどかしいと言うか、残念な結果になっているようです。
本書にもとづいて簡単に整理しておきましょう。
◆ 『ニモ』製作開始から宮崎駿の参加まで
1978年夏
プロデューサー藤岡豊により、
日米合作で『夢の国のリトル・ニモ』を映画化する企画が立てられる。
同年秋、『ニモ』の制作のために
制作会社テレコム・アニメーションフィルムが設立される。
1979年3月
『ニモ』制作を視野に入れて、
制作会社テレコムのアニメーターの養成をかねて
『ルパン三世 カリオストロの城』の制作が開始される。
監督として宮崎駿が起用される。
同年12月15日同作公開。
1980年ごろ
宮崎駿、メビウスの代表作『Arzach』に出会い、衝撃を受ける。
[
メビウス&宮崎駿対談動画:文字おこしと全和訳1]
1981年
『ニモ』の制作が本格的に開始される。
宮崎駿、スタッフとして参加。
1982年1月
宮崎駿、漫画『風の谷のナウシカ』の連載を開始。
(「アニメージュ」2月号)
当時からメビウスの影響が指摘される作品であった。
宮崎駿自身も同作へのメビウスの影響を認めている。
[
メビウス&宮崎駿対談動画:文字おこしと全和訳1]
1982年8月中旬
宮崎駿をはじめとした『ニモ』の日本人スタッフが渡米。
ロサンジェルスでディズニーのアニメーターの講義を受ける。
(この2年後、1984年からメビウスはロサンジェルスに住むようになる)
◆ 宮崎駿の離脱から『ニモ』制作の一時中断まで
1982年11月22日
宮崎駿、『ニモ』の制作から離脱。
『ニモ』の制作会社である
テレコム・アニメーションフィルムを辞職する。
1983年2月8日
『ニモ』の製作発表が帝国ホテルで行われる。
しかし、この後、
プロデューサーのゲーリー・カーツと日本スタッフの間での
制作スタイルの差が、
たびたび問題となるようになった。
1984年3月11日
宮崎駿監督の映画『風の谷のナウシカ』が公開される。
同日ビデオも発売される。
(このビデオの海賊版が、のちにメビウスの目に触れることとなる)
1984年8月8日
『ニモ』の制作中断が決定。
1984~1985年
メビウス、映画『風の谷のナウシカ』を海賊版のビデオで観る。
(メビウスは当時アメリカのロサンジェルスに住んでいた)
当時はメビウスはまだ宮崎駿を知らず、
監督の名前を知らないままビデオを観て衝撃を受け、
一気に宮崎駿のファンになった。
[
記者会見の記事の抄訳:「宮崎駿―メビウス」展]
◆ メビウスの参加から二人が実際に出会うまで
1985年4月
メビウス、『ニモ』の制作に参加決定。
[前略]メビウスは極端な菜食主義者[後略]
メビウスはその頃から宮崎さんファンで
「藤岡はなぜ宮崎にこのプロジェクトを任せなかったのか?」
を繰り返しながら、
際限なく手を動かして
彼特有のSF的な奇妙なキャラクターのスケッチを
描いては捨て、描いては捨てていたし、[後略]
[いずれも『リトル・ニモの野望』156ページより。
適宜改行を入れてある]
1987年
メビウス、来日。
スタジオ・ジブリを訪れ、
やっと宮崎駿に会う。
[
雑誌「Cut」:「宮崎駿―メビウス」展の記事]
1989年7月15日
『ニモ』、日本公開。
1992年前後
メビウスに娘が誕生。
ナウシカと命名する。
[
風の谷のメビウスの娘はネコバスでおおはしゃぎ]
上記の年表は『リトル・ニモの野望』にもとづき、
適宜、当サイトで調査した結果を加えてあります。
『リトル・ニモの野望』でのメビウスへの言及は、
上の年表の1985年4月の項に引いた箇所くらいで、
他には2,3回名前が挙がる程度です。
メビウスだけを目当てに買うには貧弱な内容と言わざるを得ませんが、
もともと日本のアニメについて書かれている本なので、
これは仕方のない所でしょう。
それよりも、日本アニメの海外進出黎明期の様子を伝える書物として
とても興味深いので、ご一読をおすすめします。
《付記》
ということで、
『ニモ』の制作に関してはメビウスと宮崎駿は実際には出会ってはいず、
(それどころか、厳密には共作でもない)
二人が実際に出会ったのは1987年になってから、
ということになるようです。
宮崎駿がロサンジェルスに行った後に
メビウスがロサンジェルスに引っ越して来たり、
宮崎駿が『ニモ』の制作から離脱してから
メビウスが制作に参加したり、と
何とももどかしいすれ違いが何年も続いたようです。
二人が実際に出会うまでには、
実に7年近くの紆余曲折があったのですね。
メビウスが『ニモ』を制作しながら
「宮崎駿は何で居ないんだ?」
なんて愚痴ったり、
宮崎駿がメビウスと会うためだけに渡仏したり、
[
メビウス&宮崎駿対談動画:文字おこしと全和訳1]
なんてことも、こういう経緯があったからこそなのですね。
それを思うと、二人の対談動画も一層感慨深いように思います。