今回問題にしたいのは、
日本の「漫画」の発表形態と多様性との関連についてです。
話がちょっと硬くなってしまいそうですが、
要は、
「単行本書き下ろしの漫画が出て来ても良いんじゃないすか?」
って話です。
◆ 産経新聞「売れない漫画誌 新人育成に障害」 - 漫画誌の低迷は漫画の多様性を損なう?
すこし前に公開されたものなので、
すでに読まれた方も多いとは思いますが、
産経新聞の公式サイトで以下のような記事が公開されました。
● 「Sankei Web」内「ニュース>読書>【出版インサイド】売れない漫画誌 作品の複雑化が要因、新人育成に障害, 04/25/05:00」
一応、この記事の論旨をまとめて置くことにしましょう。
・雑誌連載で読むには適さない複雑化した漫画が売れるようになって来た。
・そのため、漫画の単行本は売れても、雑誌が売れなくなって来た。
・「
漫画誌の衰退は漫画の多様性を損ない、
新人の育成に大きな障害をもたらす」[記事の文章を引用してあります]
◆ 漫画雑誌の役割 - 新人育成
この記事
(もしくは、
漫画雑誌が売れなくなったことを憂いているとされる
「ある大手出版社の漫画誌編集者」や
漫画評論家の村上知彦氏)
の発言の最大の問題は、
漫画雑誌が売れなくなったことに対する対案を一つも示していない
点にあると思います。
唯一、「読者懸賞の充実」が対案として示されているようですが、
これではあまりにも貧弱と言わざるを得ないでしょう。
さらに僕が気になってならないのは、
漫画雑誌の売上の低迷が漫画の多様性を損なうことになる、
とされている点です。
本当に、
漫画誌の売上低迷は
漫画の多様性を損なうことになるのでしょうか?
日本では、
「漫画」はもっぱら雑誌連載で読まれるのが当たり前になっていますが、
もう少し視野を広げて、
ヨーロッパやアメリカでの漫画の発表形態を見てみると、
ヨーロッパではむしろ単行本書き下ろしでの発表が主になっていますし、
アメリカでは単行本でも雑誌でもないペラペラの小冊子形態のものが、
漫画の発表形態の主だった手段となっていると聞きます。
*ヨーロッパでは漫画は「バンド・デシネ」(略して「ベデ」)、
アメリカでは漫画は「コミック」と呼ばれ、
日本の漫画「Manga」とは区別されています。
日本の「漫画」こそが世界一と考え、
世界には日本の「漫画」のような漫画しか存在しないと考えるのは、
日本の「漫画」ファンの不幸な偏見に過ぎません。
フランスを中心にした「ベデ」文化、
アメリカを中心にした「アメコミ」文化、
日本を中心にした「漫画」文化、
というように、世界の漫画はおもに三つの文化圏に分けられ、
それぞれがそれぞれの価値観において
優れた作品をたくさん輩出しています。
たとえば、
「アメコミは、ヒーローもののような子供だましのものばかりだ」
なんて言うのは、無知ゆえの偏見と思い上がりに過ぎません。
ヨーロッパの漫画「バンド・デシネ」に関しては、
日本では存在すら認知されていませんが、
日本の「漫画」とは異なった独自の表現領域を切り拓いています。
こういった、根本的に価値観の異なる他国の漫画を、
日本の「漫画」にとって都合のよい基準で裁断し、
「日本の漫画こそ世界一だ。他国の漫画は数段劣る」
なんて考えてしまうのは、
何より日本の「漫画」ファンにとって不幸なことだと、
僕は思います。
雑誌による漫画の発表、という日本の「漫画」の発表形態は、
世界的に見るならむしろ珍しい部類に属するのです。
漫画雑誌の売上低迷が新人育成の障害になる、
という意見には大賛成です。
「漫画雑誌」という、日本の「漫画」独特の発表形態は、
何より新人の発掘と育成に最適のシステムです。
単行本主体のヨーロッパでは、新人の発表の場が極端に少なく、
それが少なからず問題になっていると聞きます。
そのため、日本の「漫画雑誌」にならって、
ベデ専門誌を創刊する動きもあるようです。
しかしながら、
漫画雑誌の売上低迷が漫画の多様性を損なう結果になるかと言うと、
それはまた別の問題だと思うのです。
なぜなら、
そもそも「漫画雑誌」という発想自体がない
ヨーロッパやアメリカにおいて、
今なお多様な漫画が発表され続けているからです。
◆ 漫画雑誌と漫画の多様性 - 売上第一主義こそが元凶では?
ヨーロッパやアメリカでの例を見れば分かるように、
漫画雑誌の衰退は、
かならずしも漫画の多様性を損なう結果にはなりません。
それなのになぜ、
「漫画誌の衰退は漫画の多様性を損な」う、
なんて言う主張が出て来るのでしょうか。
もう一度産経新聞の記事を見てみることにしましょう。
読者が漫画誌を読まなくなったため、
「売れている単行本」に人気が集中する。
そして、漫画誌は減り続ける読者を逃すまいと、
ターゲットを極端にしぼり、
同じような作品ばかりを掲載する傾向が顕著になってきた。
[下線は引用者]
下線部を見てみてください。
ここでは、
漫画誌と漫画の多様性との関係について、
論理が逆転してしまっています。
漫画誌がもし本当に漫画の多様性を保証するものであるならば、
漫画誌はここで、
「漫画誌は減り続ける読者を逃すまいと、
売れる漫画を新たに発掘するために、
新人発掘にさらに力を入れ始めた。」
とでも言わなければならないはずなのです。
それなのに、
「減り続ける読者を逃すまいと、ターゲットを極端にしぼり」
と言ってしまっている。
結局、漫画の多様性を損なっているのは、
漫画誌の“売上第一主義”に他ならないのです。
もちろん漫画誌も商業として成り立っているわけですから、
売上を重視すること自体は悪いことではありません。
しかしながら、
「多様性」などという耳ざわりの良い言葉を使って、
既得権益を守ることしか考えていない自分たちの、
企画力の無さを誤魔化している、
と言うのであるならば話は別です。
もう一度言いましょう。
漫画誌の衰退は、
かならずしも漫画の多様性を損なうことにはなりません。
むしろ、
いま漫画の多様性を損なっているのは、
漫画誌の売上第一主義に他ならないと僕は思います。
さて、ここでちょっと視点を変えて、
「作品が複雑化し、連載で読むには適さなくなった」
とされている、いわば“単行本派の漫画”と、
漫画の多様性との関連について考えて見ることにしましょう。
◆ 発表形態の多様性と漫画の多様性 - 発表形態の多様化の提案
産経新聞の記事
(もしくは、
「ある大手出版社の漫画誌編集者」や
漫画評論家の村上知彦氏)
の主張に従うなら、
単行本派の漫画と漫画の多様性との間には、
次のような関係が成り立ちます。
1 単行本派の漫画が売れるようになって来た。
↓
2 漫画誌は売上を守るために、
「売れている単行本」に倣った
同じような作品ばかりを掲載するようになった。
↓
3 漫画の多様性が損なわれる。
さながら「風が吹いたら桶屋が儲かる」のようですが、
いずれにせよ、産経新聞の記事に従うなら、
漫画の多様性が損なわれる一番最初の原因は、
単行本派の漫画の台頭、
ということになるわけです。
しかし、本当に単行本派の漫画の台頭は、
漫画の多様性を損なう結果になるのでしょうか。
じつは答えはすでに出てしまっています。
他でもない産経新聞の記事が、
単行本派の漫画が
漫画の新しい潮流だと認めてしまっているからです。
「
かつて、読者は漫画誌の連載を読み、」
「
今の読者は複雑なストーリーを持つ長編作品を好む。」
[いずれも下線は引用者]
この「かつて」と「今」の対比。
単行本派の漫画こそは、
漫画の新しい潮流であり、
それはすなわち、
漫画のさらなる多様化につながるはずなのです。
それなのになぜ、
単行本派の漫画の台頭が、
漫画の多様性を損なうことに繋がってしまうのか?
「漫画は雑誌で読むもの」
という固定観念がそこに働いているからです。
前述したように、
ヨーロッパやアメリカでは
そもそも「漫画雑誌」という発想がありません。
それでもなお、多様な漫画が発表され続けています。
漫画はけっして雑誌だけで読むものではありません。
単行本派の漫画の台頭は、
従来の雑誌中心の日本の「漫画」の枠には収まりきらない、
新しい漫画が望まれていることの現れだと、僕は思うのです。
漫画の多様性を望む者にとっては、
それは歓迎すべき傾向であるはずなのです。
もちろん僕は、
「漫画雑誌」が無くなってしまえば良い
と言いたいわけではありません。
前述したように、「漫画雑誌」は
新人の発掘と育成のためには
じつに優れたシステムだと思います。
つまり、
・新人育成のための漫画雑誌
・複雑化した作品のための単行本の書き下ろし
という二本立てで、
今後の漫画の発表形態を作ってゆけば良いのではないかと
思うのです。
当然、漫画雑誌の売上は落ちたままでしょう。
しかしこの二本立てトータルで、
“漫画の売上”として考えるならば、
僕はむしろ売上は上がるのではないかと思います。
なぜなら、従来なら発表が難しかった
単行本派の漫画の売上が新たに見込めるからです。
*もちろん、新人に限らず“連載派の漫画”は、
今までどおり漫画雑誌で連載すれば良いでしょう。
また、単行本派の漫画にしても、
その抜粋を雑誌に発表する、ということも考えられます。
事実、ヨーロッパのベデ雑誌では、
単行本書き下ろしが原則のベデの抜粋が、
雑誌に掲載されることがしばしばあるようです。
要は、単行本書き下ろしという漫画の発表形態を
あらたに認めれば良いのではないか、
ということです。
◆ 「日本」の「漫画」と日本の漫画 - 固定観念の打破に向けて
さて、以上のように、
単行本書き下ろしという漫画の発表形態をあらたに認めるべきだ、
というのが僕の主張なのですが、
本当にそんなことが可能なのでしょうか。
たとえば僕は、
「漫画雑誌の売上低迷は
かならずしも漫画の多様性を損なう結果にはならない」
ということを主張するために、
ヨーロッパやアメリカの漫画の話を引き合いに出しましたが、
そこで、
「日本の漫画は日本に独自のものなのだから、
安易に他国の漫画を引き合いに出すべきではないのではないか」
と考える方も当然いらっしゃるでしょう。
しかし本当に、
「日本の漫画」は日本に独自のものなのでしょうか?
たとえば、
80年代に日本の「漫画」に革命を起こしたとされる
大友克洋の『AKIRA』。
そして宮崎駿の『風の谷のナウシカ』。
あるいは、
日本どころか世界を制覇したと言っても過言ではない
鳥山明の『ドラゴンボール』。
いずれも日本を代表する「漫画」の傑作たちばかりですが、
じつはこれらの作品すべてに、
あるフランスの漫画家が影響を与えていると言われています。
その名はジャン・ジロー・メビウス(Jean Giraud Moebius)。
日本ではほとんど知られていませんが、
世界中の漫画(あるいは映画、イラスト)に多大な影響を与えている、
世界の漫画の神様、フランスの偉大なるアーティストです。
*当サイトは、メビウスのファンサイトです。
あの手塚治虫でさえ、
「メビウス線」というキーワードのもとに、
メビウスの作品を研究したと言われています。
日本の「漫画」は、
決して「日本」の中だけで発達して来たものではありません。
むしろ、
偉大なる先達たちが漫画のあたらしい表現領域を切り拓くとき、
そこには必ず、
従来の「日本」の「漫画」の狭くるしい枠組に囚われない、
より広い視野が存在したはずなのです。
自国の文化に誇りを持つこと自体は決して悪いことではありません。
しかし、行過ぎた誇りは、
得てして、
あたらしい可能性の芽を摘んでしまう固定観念となりがちです。
さきほど僕は、
「いま漫画の多様性を損なっているのは、
漫画誌の売上第一主義に他ならない」
と言いましたが、
より本質的に言うならば、
批判されるべきは、
「漫画は雑誌で読むもの」という固定観念そのものでしょう。
そしてそれは、
「日本の漫画は世界一」
という不幸な思い込みと無縁ではないと、僕には思えます。
話がすこし逸(そ)れてしまいましたが、
単行本書き下ろしという漫画の発表形態については、
すでに日本国内に先例を求めることが出来ます。
● 出版社白泉社公式サイト内「BIGニュース!! 『ガラスの仮面』アニメ化決定!!」
● 同上『ガラスの仮面』試し読みのページ
● アマゾン日内『ガラスの仮面 42巻』
残念ながら僕は同作を読んだことがありませんが、
同作は以前から、雑誌連載と単行本で原稿が大幅に異なる
実質書き下ろしの単行本作品として有名なものです。
単行本書き下ろしという漫画のあたらしい発表形態は、
けっして不可能なものではありません。
むしろそのような
新しい選択肢を用意することで、
漫画はさらに発展すると、僕は思います。
もしそれを阻むものがあるとするならば、
それは「日本」の「漫画」に固執する
悪しき固定観念に他ならないのではないでしょうか。
考えても見てください。
たとえば某少年漫画誌に下書同然の原稿を載せて
顰蹙(ひんしゅく)を買いまくっている
某T先生なんて、
単行本書き下ろしで作品を発表すれば、
何にも問題はないように思うのですが……。
*冨樫義博はアシスタントを雇わず、
原則すべて自分ひとりで原稿を仕上げるそうですが、
これも、バンド・デシネの世界ではむしろ当たり前のことです。
冨樫義博(あるいは大友克洋)は、
日本の漫画家というよりは、
フランスのベデ・アーティストの素質を多分に持った
作家だと思います。
彼らを「日本」の「漫画」作家の枠組に閉じ込めてしまうのは、
作家にとって、そして何よりファンにとって、
不幸な結果になるのではないでしょうか。
関連:
[
基本用語解説]
[
はじめてメビウスを知った方へ:宮崎駿との対談動画によせて]
[
メビウス&大友克洋対談記事:「OTOMOEBIUS」1]
[
手塚治虫とメビウス:82年の邂逅]
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エンキ・ビラルと荒木飛呂彦 ~リトル・フィートは誰がつくったか?]