「メビウス、『メトロポリス』を語る」の総括です。
他の関連記事については以下のインデックスを参照してください。
[
目次:メビウス、『メトロポリス』を語る]
出来れば、他の関連記事をすべて読んでから
この記事を読んでいただけると助かります。
この記事では、
・『メトロポリス』の問題は僕たち自身に差し向けられている。
・作品の可能性を広げるような解釈を示さないかぎり、
出典の詮索には意味がない。
ということを述べます。
◆ 総括
さて、
僕なりに『メトロポリス』について調べた結果を挙げてみましたが、
とくに「出典」(des références)に関しては、
ここで挙げたものの他にも多くの仕掛けがあって、
それら全てを挙げることはとても出来ませんでした。
(そんなことをし出すと、それだけで一つのサイトになってしまいます。
原稿段階で泣く泣く破棄しました)
しかしながら、ここで大切なのは、
これらの「出典」が決して単なる「お遊び」(jeu)に終わってはいない、
ということでしょう。
とくに、
『I Can't Stop Loving You』と
『St. James Infirmary』と
狂騒の20年代前後のアメリカの歴史の知識に関しては、
これらの理解無しには作品の鑑賞すら儘(まま)ならないほどです。
僕は最初この映画を観たときに、
単なる文明批判ものとしか観ていませんでした。
しかし、上記三つの内容をはじめとして色々と調べてみた今は、
その意見を翻さなければならないと思っています。
『I Can't Stop Loving You』と
『St. James Infirmary』の歌詞の内容、
そして最後のBGMのアレンジが
ディキシーランド・スタイルからベイシー・スタイルに変化すること、
これらは全て、
ケンイチがティマを失うことではなく、ティマを失った後のこと、
文明の崩壊ではなく崩壊した後のこと
(すなわち文明批判が役目を終わった後のこと)
こそが、重要な意味を持つということを示しています。
21世紀(映画の公開は2001年)に住む僕たちはすでに、
文明の繁栄には終わりがあること、
文明の批判にも限界があること、
(今さら文明を完全に捨てることは出来ません。
それを自覚せずにむやみに文明以前の状態に憧れることは
単なる逃避に過ぎません。
たとえば、都会の喧騒を逃れて“素朴な田舎生活”に憧れても、
田舎の現実に打ちのめされるだけです)
を知っています。
文明批判すらすでに古いのです。
では、ケンイチはティマを失った後にどうするのか?
残念ながら映画のなかでは明確に語られてはいません。
(色褪せた写真が提示されるのみです)
好意的に解釈するなら、
おそらくこの問題は、
今この映画を観ている僕たち自身に差し向けられている、
ということになるのでしょう。
答えは僕たち自身が見つけなければならないのだと。
ここは『メトロポリス』のファン・サイトではないので
これ以上深入りすることは避けますが、
(おフランスの漫画のファン・サイトなんですってばっ!)
上述のように、
「出典」が単なる「お遊び」に終わっていないということは、
再度確認しておく必要があるでしょう。
この作品には、僕が挙げた例以外にも、
非常に多くの仕掛けが施されているようです。
それらを際限なく指摘し続けることも出来るでしょうが、
単に出典を詮索するだけでは意味がありません。
それでは、必要以上に作品を煩雑にしているだけです。
僕はそれは、マニアの自己満足でしかないと思うのです。
僕が上に提示した解釈にも限界はあるでしょうし、
もちろん異論はあって当然だと思うのですが、
僕が今回示した種々の考証が、
この作品の可能性を広げることに繋がれば幸いです。
[
目次:メビウス、『メトロポリス』を語る]