個人的なメモです。
訳文を改訂するにあたって気になることがあったので、
メモしておきます。
外国語に関する疑問を解消するために、
ネイティブの人(その言語を母国語として話す人)に
意見を訊きに行くばあいがあります。
これははたして有効な解決方法でしょうか。
僕はそうではないと思うのです。
むしろ、
場合によっては非常に危険な方法だと思います。
◆ 納豆ってどんなもの?
外国語に関する疑問を解消するために
ネイティブの人に意見を訊いたとしましょう。
この
“ネイティブの意見”というのは、
はたして信用できるものなのでしょうか。
例えばあなたが外国人から、
「納豆ってどんな食べものですか?」
と聞かれたとしたらどうでしょうか。
あなたが関東の人なら、
「納豆というのは、日本の伝統的な食べもので、
大豆を発酵させたものです。
朝食に食べるのが一般的です」
と答えるかも知れません。
でも関西の人なら、以下のように答えるかもしれません。
(最近はそうでもないんですが)
「あんなもん腐った豆や。人間の食うもんちゃうで!」
さらにもう一例ご紹介しましょう。
僕の知人に新潟県出身の人がいるのですが、
新潟ではなんと、納豆を混ぜるときに砂糖を入れるのだそうです。
その人は生まれも育ちも新潟で、
小さいころからずっと納豆に砂糖を入れていて、
周りの人もみんなそうしていたので、
日本人は皆そうやって納豆を食べているとばかり思っていたそうです。
その人ならきっと自信たっぷりにこう答えたでしょう。
「納豆というのは砂糖を入れて食べるものだ。
日本人なら誰でもそうやって食べている」
とうぜん上記の三者はすべて“日本語のネイティブ”なのですから、
三つの答えはすべて“ネイティブの意見”であるはずです。
はたしてどの意見を採るべきでしょうか。
“納豆には砂糖”は極端な意見として排除すべきでしょうか。
いいえ、これだって立派な“ネイティブの意見”であるはずです。
そして、
僕たちが外国語の質問をしたネイティブの人が、
この新潟県人でないという保証はどこにも無いと僕は思うのです。
◆ ネイティブってどこの誰なの?
問題はさらにあります。
「ネイティブ」というのは具体的にどこの誰を指しているのでしょうか。
たとえば、(これも僕の知人ですが)
両親が韓国人の二世の人は、
日本語のネイティブとして認定されるのでしょうか。
日本語を流暢に話し、一見日本人にしか見えないシンガポール人
(こいつは関西弁も流暢に話しますが、国籍はシンガポールのはずです)
は、ネイティブではないのでしょうか。
戦後占領されていた頃の沖縄県人は、
ネイティブなのでしょうか非ネイティブなのでしょうか。
父が外国人で母が日本人のハーフの人はどうでしょうか。
やっと言葉を喋(しゃべ)るようになったばかりの子供は?
こういった微妙な例に対して、たとえば、
標準的なネイティブの意見を参考にすれば良い、
という意見があるかも知れません。
しかしこの“標準的なネイティブ”というのは、
具体的にどういった人を指すのでしょうか。
東京(しかも山の手)生まれ東京育ちで、
NHKのアナウンサーのような話し方をする人だったりするのでしょうか。
実際にはそんな人はいないでしょうし、
居たとしても、僕はそんな人は標準的でもなんでもないと思います。
それは結局、
あまりに標準的すぎて逆に変な人、でしかないのです。
けっきょく、
“標準的なネイティブ”というのは、
(さらにはネイティブと非ネイティブの境界も)
あくまで論理的な仮構物でしかなくて、
現実に存在している日本語のネイティブはみんな
多かれ少なかれ偏りをもった極端な例でしかない、
ということになるのではないでしょうか。
僕たちが質問をする
外国語のネイティブはみんな、
多かれ少なかれ新潟県人的な偏りを持っているはずなのです。
◆ ネイティブがなんぼのもんじゃい
“ネイティブの意見”が孕(はら)むもっとも危険な性質は、
「何万人、何億人といるネイティブのうちのたった一人の意見でしかないのに、
“ネイティブだから”という理由だけで
あたかも正解であるかのように見えてしまう」
という点にあります。
“ネイティブの意見”と“言語に関する正確な意見”は
はっきりと分けて考えるべきです。
たとえば、
「私はネイティブです」と
「私がネイティブです」の
「は」と「が」の違いを正確に説明できる日本人が
いったい何人いるでしょうか。
(僕は出来ませんとも、もちろん)
ところでここに、
日本語の勉強をしている外国人
(ちょうど「は」と「が」の違いを勉強したばかりの人)
がいたとしたらどうでしょうか。
とうぜん、日本語のネイティブの僕よりも
正確な意見を披露してくれるはずです。
ネイティブだからと言って
その言語に関して正確な意見を持っているとは限りません。
使うことと説明することは別なのです。
そして、通常無意識のうちに
言語のルールを身につけているネイティブよりも、
その言語を知識として勉強した外国人のほうが、
説明することにかけては上手(うわて)、という例が
案外あるのではないかと思うのです。
“言語に関する正確な意見”を第一に考えるなら、
ネイティブ信仰は捨てるべきだと僕は思います。
(もちろん、ネイティブの意見は信用できない、というわけではありません)
◆ 日本語のバリエーションとネイティブ
ネイティブの意見をただちに信用するわけには行かない、
というのは、
僕たち日本語のネイティブについても当てはまるはずです。
たとえば
外国人が書いた日本語の文章。
こういった文章を見ると、つい僕たち日本語のネイティブは、
外国人が書いた文章だから日本語として変な表現があるかもしれないぞ、
とか、
変な表現は直してやらなくちゃな、
などと考えがちではないでしょうか。
あなたがいま想定した“正しい日本語の表現”は本当に正しいのでしょうか。
あなたと外国人を隔てる境界線は、ほんとうに信用できるものなのでしょうか。
ネイティブが正しいとは限りません。
そして、外国人が書いた“変な表現”を切り捨てるべき理由は、
じつはどこにも無いと僕は思うのです。
それはあくまで、
日本語のバリエーションの一つとして捉えられるべきです。
言葉を喋(しゃべ)るようになったばかりの子供、
“訛(なま)った”しゃべり方をする地方の人、
そして、僕やあなたが多かれ少なかれ持っているはずの偏りと、
じつはまったく同じものであるはずなのです。
◆ 自分の訳文に責任を持つために
最後にもう一つだけ。
僕たちが質問をした外国語のネイティブが、
わざわざ調べものをしたうえで、
“言語に関する正確な意見”を答えてくれることがあるかも知れません。
それはそれで非常に貴重な意見ですし、
大変ありがたいことだとも思うのですが、
それでもやはり、僕はその意見を信用することはできません。
なぜなら自分で調べていないから。
自分の訳文に自分で責任を持つためには、
やはりどうしても、
自分の目で確かめる必要が出てきてしまいます。
厳密に言うならば、
その時々に応じて必要なネイティブ像というのを自分で想定して、
それに似合うような調査をしなければならない、
ということになるでしょう。
調査はあくまで自分でやるものです。
――誰かに宛てた私信のような文章になっていますが、
それは説明の便宜のためです。
特に想定している人はいません。
あと、いちおう念のために断っておきたいのですが、
新潟県人が変だとかそういうことを言いたいわけではありませんので
あしからず。
(僕の知人の新潟県人は確実に変なヤツなんですけど)