公式サイト(フランス語)/
出品作品の画像
[
トップ/
案内/
チケット/
美術館/
宮崎1/
宮崎2/
メビウス1/
メビウス2/
メール]
MOEBIUS
Jean Giraud est ne en 1938 a Nogent-sur-Marne.
Enfant, il couvre ses cahiers d'ecolier de
dessins inspires de l'univers du Far West.
A 16 ans, il rentre aux Arts Appliques et
commence a collaborer avec defferentes revues.
En 1956, il suit sa mere au Mexique et y reste huit mois.
Ce sejour va durablement marquer sa vie.
De retour en France,
il rencontre le maitre Jije et
collabore a la serie Jerry Spring en 1960,
mais c'est sa rencontre avec le scenariste jean Michel Charlier
trois ans plus tard qui s'averera determinante.
Ensemble, ils vont creer les aventures du lieutenant 《Blueberry》.
Pendant les sixties, Giraud fait des aller-retours entre la France,
les USA et le Mexique pour enfin creer son double Moebius.
C'est sous ce nom qu'il va explorer des mondes lies a la S.F.,
un fil graphique qui va redefinir un dessin aux
antipodes de celui de 《Blueberry》.
Pendant les 70's,
il devient un des piliers fondateurs du magazine 《Metal Hurlant》
avec lequel il va marquer plusieurs generations de lecteurs
ainsi que de dessinateurs avec 《Arzach》.
Puls tard,
il rencontre le realisateur chilien Alexandro Jodorowsky
pour l'adaptation de 《Dune》(le roman de Frank Herbert).
メビウス
ジャン・ジローは1938年、
ノジャン・シュル・マルヌで生まれました。
少年時代、彼は、自分の学習ノートを
漫画雑誌
「ファー・ウエスト(西部)」誌ばりの漫画で
埋め尽くすような子供でした。
16歳のとき、彼は
応用芸術学校に入学し、
さまざまな雑誌へ投稿をしはじめました。
1956年、
彼は母親を訪ねてメキシコをおとずれ、
そこで八ヶ月間過ごします。
この旅行は、彼にとって忘れられない経験になりました。
フランスに帰ってからのち、彼は
ジジェに師事し、
1960年には
「ジェリー・スプリング」シリーズの作品を共作しました。
そしてそれはまた、シナリオライターの
ジャン・ミシェル・シャルリエとの
出会いでもありました。
三年後、この出会いの意味が明確な形となって現われることになります。
彼らは一緒に、ある中尉の冒険物語、
「ブルーベリー」シリーズを創り出すことになります。
六十年代をとおして、
ジローは、フランスとアメリカ、メキシコとを頻繁に行き来し、
そしてまた、彼のもう一つの顔、「メビウス」の名でも活躍しました。
この名こそは、S.F.の世界への、彼の新しい冒険の幕開けでもありました。
この名とともに彼は、「ブルーベリー」の世界とはまさに正反対の、
新しいストーリー漫画の世界を切り拓いて行きます。
70年代になると、
彼は雑誌
「メタル・ユルラン」発刊の立役者として活躍するとともに、
同誌において
『アルザック』を発表、
同世代の読者と漫画作家に大きな衝撃をあたえました。
その後、彼はチリ人の映画監督
アレハンドロ・ホドロフスキーと出会い、
『デューン』(フランク・ハーバートの小説が原作)の映画化に協力します。
《注》
1 ノジャン・シュル・マルヌはパリ郊外の町の名前で、
高級住宅街のようです。
→
■
地図は以下のものを参照してみてください。
● multimap.comで検索
(country「France」+town「nogent-sur-Marne」+
scale「1:50000」)
● ノジャン・シュル・マルヌ公式サイト
マルヌ県にもノジャンというところはありますが、
ヴァル・ド・マルヌ県のノジャン・シュル・マルヌとは
別物です。
また、ノジャン・シュル・マルヌは「市」ではなく、
「commune」という独特の行政区画のようです。
ウィキペディア日本では、「市町村」という訳語が提唱されています。
● ウィキペディア日本内「ノート:フランスの地方行政区画」
2 「Far West」は通常は、西部劇などでいう「西部」という意味の語ですが、
ここでは漫画雑誌「Far West」のことを指していると思われます。
ただ、この「Far West」誌については残念ながら詳しいことが分かりません。
ウィキペディアフランス内に
バンド・デシネの雑誌の一覧のページがあるのですが、
そこでも「Far West」という名前はリストアップされていません。
● ウィキペディア仏内
「Liste de Journaux periodiques de bande dessinee」のページ
(バンド・デシネの雑誌一覧)
下記のページでそれらしき雑誌の説明を見つけることが出来ました。
→
■
このページの「"LES CONTES DU FAR-WEST"」という見出しのところを
見てください。
"LES CONTES DU FAR-WEST"(13 numeros parus).
Numero 1 le 24 fevrier 1949 au numeros 13 du 19 mai 1949.
Ce n'est en fait que la suite de la serie de recits complets des
conte du FAR-WEST
(numero 1 en 1946 au numero 113 le 17 fevrier 1949).
『「ファー・ウエスト」誌に発表した短篇』(おそらく13号分)。
1949年2月24日発行の第1号から1949年5月13日発行の13号まで。
「ファー・ウエスト」誌に掲載された短篇すべては収められていない
(同誌は1946年発行の第1号から1949年2月17日発行の第113号まで)。
他にも「Far West」という名のつく雑誌はいくつかあるのですが
(→
■■■)、
発行期間から言って、
上記のものが問題の「Far West」誌ではないかと思われます。
残念ながらこれ以上くわしいことは分からないのですが、
誌名から推して、ウエスタン・コミック専門の漫画雑誌と考えて
間違いないでしょう。
ウエスタン・コミックについては、
下記のサイトを参照してください。
→
■■
日本ではまったく馴染みのないジャンルですが、
アメリカやフランスでは、
西部劇の漫画というのは一つのジャンルとして確立されているようです。
この時代のフランスの漫画はいわゆる「Strip(ストリップ)」
と呼ばれるもので、
一コマかせいぜい1,2ページほどの短さで、
ほとんどストーリーというもののないものでした。
参考までに、当時おなじように発行されていた漫画雑誌、
「クール・ヴァイヤン(Coeurs Vaillants)」(猛き心)
「フリプネ・エ・マリゼット(Fripounet et Marisette)」
(フリプネとマリゼット、人名)
の画像を参照してみてください。
「クール・ヴァイヤン」→
■■■■
「フリプネ・エ・マリゼット」→
■■■■
日本で言うところの手塚治虫以前の漫画、
と言うと分かりやすいかも知れません。
3 「Arts Appliques」というのは英語の「applied arts」に相当する語で、
「応用芸術」もしくは「応用美術」と訳される語です。
● goo辞書「応用芸術」
goo辞書によれば、
「実用的機能と芸術美とを併せもつ物、およびそれを生産する芸術的活動。
工芸。実用芸術・装飾芸術・小芸術などともいう。」
ということで、
ここでは、そのような応用芸術を教える学校のことを指しているのでしょう。
日本でいうデザインの専門学校に相当するものと考えて
良いのではないでしょうか。
メビウスが通ったのはパリの応用芸術学校のようですが、
該当するものが複数あり、
残念ながらどの学校に通ったかまでは特定することは出来ませんでした。
パリの応用芸術学校については、
下記のサイトで写真付きでくわしくレポートされています。
● 「タビシャシン」内
「フランスの美術学校」
4 メビウスの両親は彼が3歳のときに離婚しているようです
くわしくは[
未整理>「宮崎駿-メビウス」展下訳18]を参照してください。
5 ジジェと『ジェリー・スプリング』については、
以下のサイトを参照してください。
● ジジェ漫画博物館 ブリュッセルに誕生
● ウィキペディア内「jije」(英語)
2003年、ベルギーのブリュッセルにジジェ漫画博物館が設立されています。
● ジジェ漫画博物館公式サイト
● 同サイト内、『Jerry Spring』のページ
(トップページ上段左端「QUI EST JIJE?(ジジェって誰?)」
>左側三行目「BD」>
「Les personnages et series qu'il a crees
(ジジェが描いたキャラクターと漫画のシリーズ)」
>Jerry Spring(1954))
メビウスがジジェと共作したというのは、
「Jerry Spring」シリーズの
『LA ROUTE DE CORONADO(コロナドへの道)』という作品のようです。
● 上記サイト内、『LA ROUTE DE CORONADO』表紙画像
残念ながら、表紙にはジジェの名前しかクレジットされていないようです。
メビウスとジジェの関係については、
同サイト内のジジェのバイオグラフィーでも触れられています。
● 上記サイト内、「Biographie>1958-1966」のページ
(トップページ上段左端「QUI EST JIJE?(ジジェって誰?)」
>左側一段目「Biographie de l'artiste(ジジェのバイオグラフィー)」
>左側「1958 - 1966」)
さすがにこういうのまで訳し出すとキリがないので、
関連していると思われる箇所だけ引いておくことにします。
En 1958, Jean Giraud,
Jean-Claude Mezieres et Patrick Mallet (Pat Mallet),
tous trois nes en 1938
et ayant fait l'Ecole des Arts appliques a Paris,
vont montrer leurs dessins a Jije.
Ils sont impressionne's de se trouver en face du maitre,
dont ils venerent le travail sur Jerry Spring.
En 1960,
Jije realise une nouvelle histoire de Jerry Spring,
"Le Maitre de la Sierra",
publiee dans Spirou de fevrier a septembre.
Durant l'ete, Jean Giraud retourne a Champrosay;
Jije lui propose de travailler avec lui
sur un nouvel e'pisode de Jerry Spring,
"La Route de Coronado",
qui sera publie de fevrier a juillet 1961.
Cette histoire sera mise a l'encre par Giraud,
qui viendra quotidiennement chez les Gillain durant plusieurs mois.
Il se perfectionnera au contact du maitre
qui lui apprend toutes les ficelles du me'tier,
Jije le considerant comme un fils et Giraud comme son pere.
Deux ans plus tard,
Jean Giraud sera recommande par Jije a Jean-Michel Charlier
qui vient de creer la serie Fort Navajo
mettant en scene le lieutenant Blueberry.
Giraud sattaque a cette serie avec une virtuosite exceptionnelle;
toutefois, le scenariste fera encore appel au maitre
pour assurer deux interims lorsque Giraud part pour le Mexique.
1958年に当時美術学校の生徒だったジャン・ジロー他三人の若者が、
ジジェに自分の絵を見てもらいに行って、認められ、
1960年に『ジェリー・スプリング』を共作した、
というようなことが描かれてあるのだと思います。
『ジェリー・スプリング』の画像については、
下記のサイトを参照してください。
最初のものをのぞいてすべて白黒ですが、
これはカラー原稿の下書きに相当するものの画像です。
実際にはオールカラーの作品ですので注意してください。
→
■■■■■■■
6 ジャン・ミシェル・シャルリエについては、
下記のサイトを参照してください。
バンド・デシネの原作者として有名で、
メビウスの他にも多数の作家との共作で知られています。
→
■■■
7 「ブルーベリー」シリーズについては、
この記事([(語る>「ブルーベリー」シリーズ解説])と、
「メビレンジャー」の
作品レビューを参照してください。
8 「メタル・ユルラン」と『アルザック』については、
それぞれ次の記事を参照してください。
→
[語る>「Metal Hurlant」(メタル・ユルラン)解説]
[語る>『Arzach』(アルザック)解説]
9 アレハンドロ・ホドロフスキーについては、
下記のサイトを参照してください。
● はてなダイアリー「アレハンドロ・ホドロフスキー」
● アレハンドロ・ホドロフスキー/血と汚濁の中の清廉な祈り
● 「怪奇と幻想のページ」内「アレハンドロ・ホドロフスキー」
● 「DEBUMOVIE」内「アレハンドロ・ホドロフスキー」
● ウィキペディア米「アレハンドロ・ホドロフスキー」
● アレハンドロ・ホドロフスキー関連一覧
● goo映画内「アレハンドロ・ホドロフスキー」
10 アレハンドロ・ホドロフスキー監督の『デューン』は、
結局実現には至りませんでした。
しかし、メビウスのデザイン画やストーリーボード等が残されています。
● 「DUNICLOPEDIE」内
メビウスのデザイン画のページ
大量のデザイン画を見ることができます。
● 「DUNE / BEHIND THE SCENES」内
デザイン画とストーリーボードのページ
大量のデザイン画に加えて、ストーリーボードを見ることができます。
● インタビュー「jean 'moebius' giraud, dessinateur」
最後から三番目、映画に関する質問に答えるなかで、
『デューン』にかんする発言があります。
のちのち和訳をしてゆきたいと思っています。
公式サイト(フランス語)/
出品作品の画像
[
トップ/
案内/
チケット/
美術館/
宮崎1/
宮崎2/
メビウス1/
メビウス2/
メール]